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1.農業技術の匠 第5話
温州みかんの匠から、地域振興の牽引役へ。
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今回は三重県熊野市の大西誠さんをご紹介します。自身で4.3haの温州みかん農園 を経営すると同時に、株式会社「金山パイロット農園」ならびに地元のみかん生 産者の共同出資により立ち上げた株式会社「夢工房くまの」の代表として活躍す る大西さん。74才を迎えてなお、温州みかんづくりの匠として地域の尊敬を集め る秘訣とは・・・

――熊野市では、いつごろから温州みかんが盛んになったのでしょうか?

> 私が生まれた昭和10年代は養蚕の町だったのですが、養蚕の衰退とともに昭和 20年代には夏みかん栽培が中心になり、昭和30年代に温州みかん(早生みかん) が入ってくると一気に盛んになりました。温州みかんは10aあたりの収益がコメの 10倍にものぼり、田んぼをみかん畑にする農家も続出しました。
そんな温州みかんに可能性を感じ、私も就農することを決めたんです。
昭和36年には地域住民の熱い想いが実り、県営開拓パイロット事業が開始。
昭和40年に農事組合法人「金山パイロット」が設立され、熊野市における温州み かんの作付面積は100haに及びました。

――大西さんは当時、どのように温州みかんづくりに取り組んでらっしゃったの ですか?

> 私は当時から自立経営をめざしており、金山パイロットには所属せず、農業制 度資金をフル活用しながら園地整備と規模拡大に努めていました。結果、40a余り の園地を3つ、さらには昭和46年に山林を購入して開墾した3haの園地を手に入れ、 合計4.5haまでに経営面積を拡大させたんです。一方、金山パイロットは組合員の 高齢化や過剰生産による全国的な価格の暴落もあり、厳しい経営状況に陥ってい ました。この状況を打開するには、ある課題を克服する必要がありました。
隔年結果です。この地域の温州みかんづくりの安定化を図るには連年安定生産が 第一と考え、隔年結果の防止に全力で取り組みました。

――そんな隔年結果の解決には、どのようにして辿り着いたのですか?

> みかんの樹をよく観察すると、今年出た新芽には翌年実が成り、実が成った枝 には翌年新芽が出ます。芽と花のバランスのとれた樹は毎年実をつけるのですが、 このバランスが崩れると隔年結果となってしまう。そこで平成10年ごろ、思いき ってすべての樹から半分ずつ小さな芽を取ってみたんです。これが見事に成功し ました。その後、この半樹摘果を体系的に行えるよう、さらに工夫を重ねました。

――半樹摘果を体系化するにあたり、どのような工夫をされたのでしょうか?

> 半樹摘果を効率的に行うには、つぼみや花の段階ではなく、小さな実をつけた ころに摘んだほうがいいことがわかりました。なぜなら、芽や花の段階ではまだ 養分を運ぶ管が細い。この管が太りだす6月中旬7月中旬に摘むことで、残された 果実にしっかりと養分が行き渡るのです。このように半樹摘果の体系化に成功し たことで、悪化の一途を辿っていた金山パイロットの経営状況も次第に回復し、 私が代表取締役に就任した平成16年の時点で抱えていた多額の借金を3年で全額 償還することができました。

――独自の工夫で農業技術の向上に取り組まれる大西さんの、今後の夢をお聞か せください。

> 温州みかんには、まだ多くの可能性が秘められています。半樹摘果の完成後も、 平成12年から高品質な温州みかんをつくるためマルチ栽培を導入し、さらに翌年 には、マルチ資材の敷き詰めや巻き取りが一度に行える「直管巻取方式」を考案 し、労力を飛躍的に軽減することができました。
これからもこのような農業技術の向上に私利私欲を捨てて取り組み、地域に貢献 していきたいと考えています。また今後は、ブルーベリーやイチゴなども熊野市 の名産にしていきたいですね。そして全国へ“いつ来ても収穫体験できる町”と してPRし、たくさんの子供たちに遊びにきていただきたい。農業を通じて、人間 育成や地域振興に貢献していくこと。それが、私にとって最大の夢です。